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HEAR NOTHING SEE NOTHING SAY NOTHING

東京Y字路

December 19, 2010書評, 東京Y字路

前に何かの雑誌で横尾忠則が Y 字路をテーマにした写真を撮っているという記事を読み、ずっと Y 字路という言葉が引っかかっている。

人の岐路にまつわる随想なのか。着想の突飛さと主題の徹底が生み出す偶発的な表現を狙っているのか。街角で Y 字路に出くわすたび、ぼんやりと考える。そんなときは Y 字路の持つ異様もあいまって狐に包まれたような心持ちになったものだ。

そして数日前、はてブを眺めていたら「@nifty:デイリーポータルZ:珍書・奇書を出し続ける出版社」という記事が紹介されていた。その中で件の試みが写真集として書籍化されていることを知る。もちろん即座に注文した。

本書の写真は意図的に人影を消している。これはレタッチによるものではなく人の途絶える瞬間をずっと待って撮影したのだという。もちろん延びる道の端までも。

その区画を立ち入り禁止にするのでもなくただひたすら待つ。動くものがなくなったところでシャッターを押す。そうした瞬間は確かに存在し誰もが体験しているはずなのだが、とらえる必要がないので気づかれることはない。

椹木野衣は冒頭文で、これを死角と位置づけている。街のそれとして Y 字路があり、あわせて二重の死角が見いだされるのだと。横尾忠則氏は後書きで虚構の風景と語っている。物語が幕開ける登場人物が不在の舞台を表したのだという。

これらの意見に納得しつつも、私はこのゲームを思い浮かべていた。

ふと時間・空間的な死角を意識したとき。かすかにも違和感を感じたなら、そういったものが怪異や妖怪と呼ばれてきたのだろう。本書の写真はどちらも兼ね備えている。

都市の計画性と整合の象徴となる四つ辻。それに対する異物・自然としての Y 字路。この空間的な死角に人影の途絶えという時間の死角が加わり、怪異があらわれる。

被写体の大半が民家にもかかわらずもただならぬ空気を漂わせているのは、それを予感させるからではなかろうか。このような場面に出くわしたら、どちらの方角に向かっても異なる道を選ばされそうだ。枕返しならぬ辻返し。

なお Y 字路に関する創作は現在も継続しているとのこと。次の作品も楽しみだ。

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